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学ぶことの意味を学ぶこと――なぜ「興味」を研究するのか

学習研究者のコミュニティの中で自分が「興味の広がり」や「興味の深まり」を研究テーマに設定していることの意味は何か,ということを常々考える。今のところの答えは,興味の広がりや興味の深まりは「学ぶことの意味を学ぶこと」だから,というものだ。

学習研究のなかで古典的に「学習」として捉えられてきたのは,(1)知識の獲得と(2)技能の習得だ。けれど,1990年代に状況論の影響力のもと,(3)社会実践への参加という学習観が加わった。

「参加メタファー」が提起したのは,知識や技能というのは一般的なものではく特定の社会的実践に埋め込まれているのだから,むしろ実践への参加こそが学習の本質であるということだ。例えばピアノの演奏技能を習得することは,その人が「クラシック音楽ソリストの実践」のなかでやっているのか,「音楽の授業をする小学校教員の実践」のなかでやっているのかで,全く意味が異なる。そこでの本質は「ピアノが弾けるようになること」というより,「ソリストになること」か「小学校教員になること」にある。

これは,知識や技能の学習はもちろん大事だが,「知識や技能を学ぶことの意味はどこにあるのか」にも注意を向けよう,という提案だった。学問として大変重要な進展だった。

一方で,状況論は実践共同体という概念によって,学ぶことの意味を共有している人の集団を表現しようとした。そのとき,実践共同体は時に徒弟制と同一視されることになり,落語家の内弟子が住み込みで修行しながら師匠の「善さ」に近づいていくような,そんなイメージをもたらした。徒弟的なイメージで「参加」を捉えると,「学ぶことの意味」は師匠や共同体があらかじめもっており,学習者はそこに同一化していくだけの存在になりかねない。

けれど,そのようなイメージにも限界がある。インターネットとスマートフォンが普及し,人生100年時代がうたわれる2010年代の社会では,個別性やパーソナライズは欠かすことのできない視点だ。この時代に生きる私たちは,「学ぶことの意味」は自分自身で見つけ出し,つくりあげていくことを期待されている。徒弟的な世界は前提になっていないし,最終的に徒弟的な世界に身を置くとしても,「本人が入門する決断をしたこと」の方に価値が置かれる。

そこでは,実践共同体の価値観に,個々人がもつ「興味」が先行する。その人がある実践に興味をもっているからこそ,その実践に参加し,知識や技能を得ることが意味をもつのだ。興味が「学ぶことの意味」を規定する。

興味の心理学の基本的な認識は,興味は生得的なものではなく社会環境との相互作用のなかで発展する,というものだ。だからこそ人生のなかで様々な経路で興味の広がりや興味の深まりが起こる。私たちは「学ぶことの意味」に,日々生活するなかで出会っていくことになる。だから,興味の広がりや興味の深まりは「学ぶことの意味を学ぶこと」になる。状況論が提起した「学ぶことの意味」という問題を、既存の共同体ではなく個人の側から考えていこう、というのが興味を研究することの意味だ。

学習科学では connected learning のように,学習者の興味を中心にし,そこから学習に関わる共同体の生態系を捉えようとするアプローチがすでに登場している。それは,状況論を経たうえでの学問の展開としても真っ当だと思うし,社会の動きにもたぶんマッチするだろう。自分としても,そのような動向のなかで思考していきたいという気持ちは,明確になりつつある。

 

* 美馬・山内 (2005) では,教育内容から構成されたカリキュラムは「学習者に学習の意味を提示することが難しいという欠点」(p. 144)があると指摘されている。それに対し状況論をふまえたうえで,「教育内容が持つ内在的な魅力を,単純な記憶活動に還元するのではなく,活動の形で表すことによって,学習者は,それを学ぶ意味を見つけやすく」(p. 145)なること,「人間は,自分が何かをも行うことによって共同体の中で認められ,その共同体に深く参加していくことができるのであれば,その過程で学ぶ意味を見つけやすく」(p. 146)なること,が主張されている。

「未来の学び」をデザインする―空間・活動・共同体

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