アマチュア通信

趣味と学校外学習を科学する

【論文紹介】遠藤・友田 (2000) 社会教育に対する文化行政からの問題提起について

梅棹忠夫は1970年代に「教育はチャージ・文化はディスチャージ」論を展開することで,文部省―教育委員会ラインの社会教育行政ではない,首長部局による文化行政に勢いをつけた.「あそびの世界」を支えるには,学校教育が大きなウェイトを占める教育委員会のラインではなく,別の部局が必要だということだった.では,その一方で,社会教育側の論者たちは「趣味やおけいごと」をいかに位置づけていたのか?

1)『月刊社会教育』において趣味はいかに評価されていたのか?

社会教育分野の代表的な雑誌である『月刊社会教育』のうち,1973年から1997年に「文化」について言及した論文・記事は181本ある.それらの記事は,文化活動=趣味やおけいごとをいかに評価していたのか?

本稿の答えは「程度の差こそあれ,いずれも教育という視点から評価を下している」(p. 115)というもの.具体的には,

  • (a) 教育的な価値のみを重視するもの:17本
  • (b) 楽しみや生きがいも重要だが,それだけでなく教育的な価値が不可欠だとするもの:11本
  • (c) 楽しみ・生きがいなどの価値を前提として認めながら,それに付随して教育的な価値が伴えばなお一層好ましいと考える立場:42本

という内訳だ.このうち(c)の立場は「楽しさ」を重視し,一見教育の論理から距離をとっているように見えるが,それでも「自己形成」や「(市民参加)の先導的役割」に期待する側面がある.

2)芸術・文化活動はサシミのツマか?

こうした社会教育の論理を示す事例として,『月刊社会教育』1977年11月に掲載された「座談会 芸術・文化活動はサシミのツマか?」がある.この座談会では,趣味やおけいごとを「サシミのツマ」で終わらせてはならないという主張が展開されている.サシミのツマで終わらないとは「芸術文化活動が学習に結びつくこと」を意味し,具体的には「感性を身につけること」や「社会性が織り込まれること」などが挙げられている.本稿で象徴的に取り上げられているのが「十人来てるうち七人は落伍してもいいから」という発言であり,そこでは「教育」の観点から,適切な文化活動/不適切な文化活動の判断が行われている.

社会教育の論理を確認したうえで,著者は「個々の参加者が学習なり趣味・おけいこごとの活動を行う際に,何を志向するのか(例えば,楽しみのためなのか,主体形成のためなのか)は,個々の参加者が決めるべき事柄であり,教育する側が一つの価値観にのみ強制し,それに従わない人を排除することは許されないのではないだろうか」と述べる.

最終的に著者が表明する立場は,学習科学の学習者中心アプローチにとても近い.確かに,趣味への参加が「感性を身につけること」や「社会性が織り込まれること」に結果としてつながることはあるだろう(『趣味縁からはじまる社会参加』のような話だ).しかし,それはあくまで「結果として」であって,はじめから望ましい趣味とそうでない趣味を区別することは首肯しかねる.だからこそ,個人の「興味」や「楽しさ」を第一義にすえたうえで,趣味を支えていくべきなのではないか.行政だからこそ,そうした度量の大きさで活動を支えられる強みはあるはずだと思う.

 

それにしても,趣味を「サシミのツマ」とは,すごい表現をしたものだと思う.

 

遠藤和士, 友田恭正 (2000) 社会教育に対する文化行政からの問題提起について――梅棹忠夫氏の文化行政論と『月刊社会教育』との比較考察――. 大阪大学大学院人間科学研究科紀要, 26: 107-121 https://ir.library.osaka-u.ac.jp/repo/ouka/all/5761/