アマチュア通信

趣味と学校外学習を科学する

学習/芸術制作と政策担当部局の分離

1)学習と芸術制作はひとつの活動の両側面である

学習科学は,学習と制作活動は統合されたものと考える.「つくることでまなぶ」というやつだ.サイバー法の Lessig が,J. S. Brown に言及しながらこういう表現をしていた.とても良い表現だと思う.

文化をいじることが,それを作ると同時に学ぶことになるのだ(tinkering with culture teaches as well as creates) p. 64

Free Culture

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わたしたちは「学んでから制作する」のではない.「制作しながら学ぶ」のであり,その結果として制作も洗練されていく.サークルや部活動でもそうではないか.初心者だろうといきなり吹奏楽に参加し,参加するなかで既存の吹奏楽という文化について学びながら,音楽づくりを洗練させていくのである.どこか別の場所で学ぶわけではない.学習と芸術制作はひとつの活動の両側面にすぎない.

2)日本において学習と芸術制作は政策の担当部局が違う

ところが,日本では不思議なことに,学習と芸術制作に関する政策を担当する部局が異なる.国レベルでは,学習は「文部科学省生涯学習政策局」が,芸術制作は「文化庁」が担当している.地方自治体レベルでは,学習は「教育委員会」が,芸術制作は「教育委員会あるいは首長部局」が担当している.これらの部局が「実質的に同じような活動を対象にしている」と多くの論者は言う.それにも関わらず,部局は分離しているのである.結構意味が分からない状況である.

僕がアマチュアの芸術活動を研究対象としようとするときも,それをどの領域に位置づけたらいいのか本当に謎だった.社会教育・生涯学習のような気もするけれど,でも公民館の活動を見ているわけではないし・・・文化政策のような気もするけれど,トップレベルの芸術活動を見ているわけでもないし・・・似たような領域はいろいろあっても,どこにも位置づけられないもどかしさを感じた.

3)なぜ担当部局は分離したのか?

12月16日に文化政策若手研究者交流セミナーで発表をさせていただき,そこでも文化政策/社会教育・生涯学習政策の分離が話題になった.先生方の認識として「分離している状況から新たな統合を目指したい」というのがある一方で,「そもそもなぜ分離したのか上手く説明できない」という.どうやら難問らしい.

この問題,博論を書くうえでも検討せざるをえない.11月15日の博士課程コロキウムでは,マクロな社会動向について考察したうえで「趣味の政治行政へのとりこみ」についても言及すべきではないか,と指摘いただいた.学部生の時から苦しめられている問題だが,やはり避けて通れない,と観念した次第.