学習=「慣習的な人工物を再生産できるようになること」
1)学習とはどのような個人の変化を指すのか
前回の記事で「学習」とは「任意の2時点における特定の個人の変化を定式化したものである」という条件を述べたが,これは必要条件であって,「学習」を定義するには不十分だった.「学習とはどのような個人の変化を指すのか」という観点から,「学習」概念の意味をより特定できるだろうか.
2)学習である変化/学習ではない変化
日常的な言葉遣い:「科学的概念を理解すること」や「道具の使い方を理解すること」は学習と言うのに対し.「相手の意見を理解すること」は学習とは言わない
この用例では同じ「理解」であっても,学習である変化/学習ではない変化が区別される.何によってその区別が生まれるだろうか?
これに対する瀬下くんの回答はなるほどと思った.
一般の人の知識観では、学習はなんか一定の堅固さを持ってる対象を外部から自分のなかに取り入れるような感じの言葉だろうから、科学や道具の使い方のようにある程度かたまってそうなものは学習できるけど、相手の意見だと学習できないのではないかしら。昔のえらい人の意見なら学習できる感じする。
— seshiapple (@seshiapple) 2018年1月27日
表に整理してみよう.
学習かどうか | 学習である | 学習ではない |
個人の変化 | 科学的概念の理解 道具の使い方の理解 |
相手の意見の理解 |
理解する対象の特徴 | 他者がつくりだし,ある程度,社会的に慣習化されている | 自分がその場でつくりあげる |
「科学的概念」にせよ「道具」にせよ,歴史的・文化的に慣習化された人工物である.マイケル・コールの『文化心理学』からの孫引きになるが,歴史的認識論のマルクス・ヴァルトフスキーは「人工物」を「人間の欲求や意図を対象化したもので,認知的・情動的内容がすでに備わっているもの」と定義したうえで,三水準に分類している.
- 第一次人工物:生産に直接用いられる(e.g. 斧,こん棒,針,食べ物の容器,ことば,筆記具,遠隔通信のネットワーク…)
- 第二次人工物:第一次人工物やそれを用いた行為の諸相についての概念(e.g. レシピ,伝統的な信念,規範,憲法…)
- 第三次人工物:想像上の世界(e.g. 芸術,スキーマ,スクリプト…)
これらの人工物は,先行世代が歴史的につくりあげ,文化的に定着していったものである.それについて理解し,再生産できるようになることを「学習」と言うのに違和感はない.
その一方で,会話している相手の意見への理解は,自分が今,この場でつくだすものである.慣習的に定まっていないからこそ,それは「再生産」ではなく「生産」になる.これを「学習」と言うのには違和感があり,むしろベライターやスカーダマリアの「知識構築」概念のほうがしっくりくる.「学習」と「創造」は概念的に両極にあるということだろうか.ブルデューっぽい話になってきた.
「では『つくることでまなぶ』とは何なのか?」と問う人もいるかもしれないけど,「つくることでまなぶ」時に「学習」されるものは数学的概念やプログラミングの概念だったりするので,慣習的な人工物であることに変わりない.でもその時に「生産」されたものは,その人オリジナルなものであるだろう.
「学び方を学ぶ」「創造の方法を学ぶ」といった学習でも,学習の対象は「学び方」「創造の方法」といった慣習的な人工物である.しかし,慣習的な人工物について学ぶことで,個人的かつ革新的な人工物を生み出せるようになる.学び方の学び,創造の学びを探求している人は,「変化を慣習にできるのか」という問題に取り組んでいるわけだ.
3)学習とは「慣習的な人工物を再生産できるようになること」
暫定的に,「学習」とは次のようになものであるとまとめておく.
任意の2時点を比較した際に,ある慣習的な人工物の再生産を,特定の個人がどのようにできるようになったかを定式化したもの
あるいは人工物とは言わずに「慣習」と言い切った方がいいのかもしれない.
任意の2時点を比較した際に,ある慣習の再生産を,特定の個人がどのようにできるようになったのかを定式化したもの
参考
過去を振り返ることでしか学習は認識できない
1)過去を振り返ることでしか学習は認識できない
日常生活や科学実践において「学習」という現象は次のような特徴をもっている.
任意の2時点における特定の個人の変化を定式化したもの
※これは必要条件であって必要十分条件ではない.例えば「5分前と比べて友達が怒っている」こともこの条件に当てはまるが,常識的にこれは「感情の変化」であって「学習」とは言わない.
この特徴から得られる重要な性質は,
学習が生起したかどうかは過去を振り返ることでしか分からない
ということだ.時点T2に至ってから,T1と比較したときにはじめて個人の変化が認識でき,それを「学習」であると捉えられる.
具体的には次のような研究方法を考えれば,みな過去を振り返ることで学習を認識していることが分かるだろう.
- 授業開始前と授業終了後のプレテストとポストテストを比較することで学習を認識する
- 熟達者と初心者を「同一の学習曲線上にある」と仮定したときに,両者を比較することで学習を認識する
- 回顧的インタビューで語られ意味づけられた状態や出来事を比較することで,学習を認識する
2)いま学習が生起しているかどうかをいかに認識するか
だが,過去を振り返ることでしか学習を認識できないという性質は,
ある瞬間に学習が進行しているのかを認識することは困難である
という帰結をもたらす.そうであるならば,現在進行形の学習に介入することを目指す教育者やファシリテーター,自己調整学習者は,いかにして学習を認識したら良いのだろうか.
考えられる方法は2つある.
2-1)2時点の間隔をなるべく小さくする
過去を振り返ることでしか学習を認識できないといっても,「ごく最近の過去」に着目すると,実践を行いつつ学習を認識できる.
- 形成的評価:授業終了後に過去を振り返るのではなく,授業の進行中に過去を振り返ることで,学習が生起しているのかを認識する.もし狙い通りに学習が起きていないと分かったら,その場で授業のやり方を調整することができる.
- マイクロジェネティック・アプローチ:理論的に考えると「2時点の間隔を限りなく0に近づける」という「微分」を行えば,ある瞬間に学習が進行しているのか認識できる.これを目指すのが「マイクロジェネティック・アプローチ」で,参与観察によって学習が起きる瞬間を記述しようとする.また,「ラーニング・アナリティクス」によるログデータの分析も,それを可能にするかもしれない.
2-2)学習が生起しそうな状況に賭ける
最終的に学習が起きたかどうかは過去を振り返らないと認識できないが,それでも学習が起こりそうな確率は上げられる.過去を振り返るのではなく,未来を予測する方法である.
- ヴィゴツキーの「発達の最近接領域」:ある個人がひとりで達成できなくても他者の助けを借りてなら達成できる課題があるとき,個人にはその課題ができるようになる発達の潜在性があると捉える.最終的にその発達が起きたかどうかは過去を振り替えらないと認識できないが,しかし現時点で「他者の助けを借りてなら達成できる課題がある」状況があるならば,それは学習の生起を強く予測する.
学習環境デザインは「本当に学習が起きるんですか?」という問いに対して,「~~という条件をしつらえるから起きるはずです」と説得することを宿命づけられている.絶対に起きるとは言えない.起きたかどうかは過去を振り返ることでしか分からないからだ.だが,それでも未来に賭けるわけである.
(2018.2.7 追記)
この記事の内容,有元典文先生の「学習という観察」(2013年)をなぞっていることに気づいた.
学習というのは個人の具体的な変化でありながら,同時に観察という実践によって作られる社会的な事象でもある.なぜなら行動の変化は,過去の行動と比較した「行動の変容の認識」によってしか明らかにならないからである.
【本の感想】ピーパー (1965) 余暇と祝祭
まれびとハウスに来てくれた人が「アメリカでヒラリー・クリントンよりバラク・オバマの人気があるのは leisure の姿が見えるから」という話を教えてくれた.オバマが余暇にバスケットボールをしたり家族と過ごしたりしているのはイメージがつくのに,クリントンからは仕事のイメージしか出てこない.そこが二人の違いだそうな.
『余暇と祝祭』の著者ヨゼフ・ピーパーがいうには,労働が絶対視された近代社会では「困難や苦労を経験しないと高みに至れない」と考えられている.一方で,古代や中世の西洋社会では余暇こそが高みであると捉えられていた.愛をもって自然に世界を「受け取る」状態こそが善であると.
もちろん,世界を受け取れるようになるため――「余暇をする」ため――に苦労がともないうることは著者も認める.けれど,「苦労したから良い」というわけじゃないだろう,むしろその人が尊厳をもった生き方をするほうが本質だ,という.
このご時世,著者のいうことはそりゃそうだ,と納得されるだろう.センター試験の倫理の問題として「遊びの意義」が出るくらいだ.だからなおさら,「余暇をする」ことを実践的な問題にしていく時期が来ている.
【本の感想】田中 (2017) 関係人口をつくる
「関係人口」という言葉をはじめて聞いたとき,なるほど!と膝を打った.移住してくる「定住人口」でもないし,つかの間に観光していく「交流人口」でもない.二拠点暮らしだろうと,地元の特産品を食べるだろうと,地域と何らかの形で定期的に関わる人びと.日本全体で人口減少が進んでいる状況では,地域は縮小するパイのなかで定住人口を奪い合うしかない.でも関係人口なら,人口が減っても増やせる.ひとりが複数の地域の関係人口になれるからだ.こういう「まだ名前はついていないけれど,それに名前がつくと色んな議論がしやすくなるものに,名前をつけること」ができる人には心底尊敬がわく,というか嫉妬する.
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2017年の振り返り
2018年になりましたが,昨年の振り返りです.
2017年に直面したこと
a)データは偉大
自分で収集・分析したデータを持っていると,色んな場所で自分の関心について話せてすごい.年初に提出した修論をもとに,日本教育工学会研究会・全国大会や日本文化政策学会若手研究者交流セミナーとさまざまな場所で話させてもらった.一方で学振には落ちたし,投稿論文はまだアクセプトされていない.くさらず続けていく.
b)発表に元気がない
話は面白いのだけど,話し方に熱意や覇気を感じにくいという意見をめっちゃもらった.2017年は東大,専修大,帝京大の授業や,駒場祭の企画で話す機会をもらった.せっかくいただける機会.「落ち着いている」と言われがちで,どうにかしたいところ.
c)文章を「つくる」
自分にエンジニアやアーティストとしての側面があるなら,それは文章において発揮されるだろう.まれびとハウスでの日々や,技術論についての原田くんとの会話,津和野での瀬下くんとの会話から思うようになった.Facebookに投稿する読書感想文を「つくった」と表現しても何も問題ない.自分にとって扱いやすく,いじくりやすい素材は「文章」なのだから,そこでティンカリングしていく.
2017年に読んで面白かったもの
学術書:小川さやか (2011)『都市を生きぬくための狡知』 世界思想社
先行研究レビューによる問題設定の鮮やかさと,論点を示しながらデータを読ませていく書きぶりのよさ.「本」としての完成度と面白さがめちゃ高い.
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論文:河井亨 (2012) 学生の学習と成長に対する授業外実践コミュニティへの参加とラーニング・ブリッジングの役割. 日本教育工学会論文誌, 35(4): 297-308
ぼくらが「成功した大学生」として持っているイメージ,たしかに「ラーニング・ブリッジング」やわ!言語化された!,と家や研究室で大騒ぎした論文.
「記憶」「日常」「群像劇」に引っかかる人にとっての至高.「どこの家庭も、どこの親子も、大抵はつまらない料簡のなかで生きていて、しかし現実がそこにあればやっぱりそれだけで感動する」って台詞にやられる.
落合 (2017) 超AI時代の生存戦略
落合さんのような一流の研究者が、一般書のレベルでいろいろ思考を開陳してくれる状況は素直に楽しい。まれびとハウスに出入りしていただとか情報学環の先輩だとかで勝手に親近感をいだいているせいもある。
57ページに「ものごとには透明性と趣味性があって、人間だけが個人の色を付けていくことができる」とある。1970年代に「趣味はサシミのツマか」議論されていたとしたら、2020年代は本格的に「趣味はサシミである」と認識されるだろう。落合さんに限らず、人生100年時代や人工知能の発展を意識した論者はみな、「遊び」や「趣味」としてのライフの重要性を説いている。
超AI時代の生存戦略 ―― シンギュラリティ<2040年代>に備える34のリスト
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【論文紹介】遠藤・友田 (2000) 社会教育に対する文化行政からの問題提起について
梅棹忠夫は1970年代に「教育はチャージ・文化はディスチャージ」論を展開することで,文部省―教育委員会ラインの社会教育行政ではない,首長部局による文化行政に勢いをつけた.「あそびの世界」を支えるには,学校教育が大きなウェイトを占める教育委員会のラインではなく,別の部局が必要だということだった.では,その一方で,社会教育側の論者たちは「趣味やおけいごと」をいかに位置づけていたのか?
1)『月刊社会教育』において趣味はいかに評価されていたのか?
社会教育分野の代表的な雑誌である『月刊社会教育』のうち,1973年から1997年に「文化」について言及した論文・記事は181本ある.それらの記事は,文化活動=趣味やおけいごとをいかに評価していたのか?
本稿の答えは「程度の差こそあれ,いずれも教育という視点から評価を下している」(p. 115)というもの.具体的には,
- (a) 教育的な価値のみを重視するもの:17本
- (b) 楽しみや生きがいも重要だが,それだけでなく教育的な価値が不可欠だとするもの:11本
- (c) 楽しみ・生きがいなどの価値を前提として認めながら,それに付随して教育的な価値が伴えばなお一層好ましいと考える立場:42本
という内訳だ.このうち(c)の立場は「楽しさ」を重視し,一見教育の論理から距離をとっているように見えるが,それでも「自己形成」や「(市民参加)の先導的役割」に期待する側面がある.
2)芸術・文化活動はサシミのツマか?
こうした社会教育の論理を示す事例として,『月刊社会教育』1977年11月に掲載された「座談会 芸術・文化活動はサシミのツマか?」がある.この座談会では,趣味やおけいごとを「サシミのツマ」で終わらせてはならないという主張が展開されている.サシミのツマで終わらないとは「芸術文化活動が学習に結びつくこと」を意味し,具体的には「感性を身につけること」や「社会性が織り込まれること」などが挙げられている.本稿で象徴的に取り上げられているのが「十人来てるうち七人は落伍してもいいから」という発言であり,そこでは「教育」の観点から,適切な文化活動/不適切な文化活動の判断が行われている.
社会教育の論理を確認したうえで,著者は「個々の参加者が学習なり趣味・おけいこごとの活動を行う際に,何を志向するのか(例えば,楽しみのためなのか,主体形成のためなのか)は,個々の参加者が決めるべき事柄であり,教育する側が一つの価値観にのみ強制し,それに従わない人を排除することは許されないのではないだろうか」と述べる.
最終的に著者が表明する立場は,学習科学の学習者中心アプローチにとても近い.確かに,趣味への参加が「感性を身につけること」や「社会性が織り込まれること」に結果としてつながることはあるだろう(『趣味縁からはじまる社会参加』のような話だ).しかし,それはあくまで「結果として」であって,はじめから望ましい趣味とそうでない趣味を区別することは首肯しかねる.だからこそ,個人の「興味」や「楽しさ」を第一義にすえたうえで,趣味を支えていくべきなのではないか.行政だからこそ,そうした度量の大きさで活動を支えられる強みはあるはずだと思う.
それにしても,趣味を「サシミのツマ」とは,すごい表現をしたものだと思う.
遠藤和士, 友田恭正 (2000) 社会教育に対する文化行政からの問題提起について――梅棹忠夫氏の文化行政論と『月刊社会教育』との比較考察――. 大阪大学大学院人間科学研究科紀要, 26: 107-121 https://ir.library.osaka-u.ac.jp/repo/ouka/all/5761/