アマチュア通信

趣味と学校外学習を科学する

【本の感想】ピーパー (1965) 余暇と祝祭

 まれびとハウスに来てくれた人が「アメリカでヒラリー・クリントンよりバラク・オバマの人気があるのは leisure の姿が見えるから」という話を教えてくれた.オバマが余暇にバスケットボールをしたり家族と過ごしたりしているのはイメージがつくのに,クリントンからは仕事のイメージしか出てこない.そこが二人の違いだそうな.
 『余暇と祝祭』の著者ヨゼフ・ピーパーがいうには,労働が絶対視された近代社会では「困難や苦労を経験しないと高みに至れない」と考えられている.一方で,古代や中世の西洋社会では余暇こそが高みであると捉えられていた.愛をもって自然に世界を「受け取る」状態こそが善であると.
 もちろん,世界を受け取れるようになるため――「余暇をする」ため――に苦労がともないうることは著者も認める.けれど,「苦労したから良い」というわけじゃないだろう,むしろその人が尊厳をもった生き方をするほうが本質だ,という.
 このご時世,著者のいうことはそりゃそうだ,と納得されるだろう.センター試験の倫理の問題として「遊びの意義」が出るくらいだ.だからなおさら,「余暇をする」ことを実践的な問題にしていく時期が来ている.

余暇と祝祭 (講談社学術文庫)

余暇と祝祭 (講談社学術文庫)

 

 

【本の感想】田中 (2017) 関係人口をつくる

「関係人口」という言葉をはじめて聞いたとき,なるほど!と膝を打った.移住してくる「定住人口」でもないし,つかの間に観光していく「交流人口」でもない.二拠点暮らしだろうと,地元の特産品を食べるだろうと,地域と何らかの形で定期的に関わる人びと.日本全体で人口減少が進んでいる状況では,地域は縮小するパイのなかで定住人口を奪い合うしかない.でも関係人口なら,人口が減っても増やせる.ひとりが複数の地域の関係人口になれるからだ.こういう「まだ名前はついていないけれど,それに名前がつくと色んな議論がしやすくなるものに,名前をつけること」ができる人には心底尊敬がわく,というか嫉妬する.

関係人口をつくるー定住でも交流でもないローカルイノベーション

関係人口をつくるー定住でも交流でもないローカルイノベーション

 

 

2017年の振り返り

2018年になりましたが,昨年の振り返りです.

 

2017年に直面したこと

a)データは偉大

自分で収集・分析したデータを持っていると,色んな場所で自分の関心について話せてすごい.年初に提出した修論をもとに,日本教育工学会研究会・全国大会や日本文化政策学会若手研究者交流セミナーとさまざまな場所で話させてもらった.一方で学振には落ちたし,投稿論文はまだアクセプトされていない.くさらず続けていく.


b)発表に元気がない

話は面白いのだけど,話し方に熱意や覇気を感じにくいという意見をめっちゃもらった.2017年は東大,専修大帝京大の授業や,駒場祭の企画で話す機会をもらった.せっかくいただける機会.「落ち着いている」と言われがちで,どうにかしたいところ.


c)文章を「つくる」

自分にエンジニアやアーティストとしての側面があるなら,それは文章において発揮されるだろう.まれびとハウスでの日々や,技術論についての原田くんとの会話,津和野での瀬下くんとの会話から思うようになった.Facebookに投稿する読書感想文を「つくった」と表現しても何も問題ない.自分にとって扱いやすく,いじくりやすい素材は「文章」なのだから,そこでティンカリングしていく.

 

2017年に読んで面白かったもの

学術書:小川さやか (2011)『都市を生きぬくための狡知』 世界思想社

先行研究レビューによる問題設定の鮮やかさと,論点を示しながらデータを読ませていく書きぶりのよさ.「本」としての完成度と面白さがめちゃ高い.

都市を生きぬくための狡知―タンザニアの零細商人マチンガの民族誌―

都市を生きぬくための狡知―タンザニアの零細商人マチンガの民族誌―

 

 
論文:河井亨 (2012) 学生の学習と成長に対する授業外実践コミュニティへの参加とラーニング・ブリッジングの役割. 日本教育工学会論文誌, 35(4): 297-308

ぼくらが「成功した大学生」として持っているイメージ,たしかに「ラーニング・ブリッジング」やわ!言語化された!,と家や研究室で大騒ぎした論文.

www.jstage.jst.go.jp


小説:滝口悠生 (2017) 『高架線』 講談社

「記憶」「日常」「群像劇」に引っかかる人にとっての至高.「どこの家庭も、どこの親子も、大抵はつまらない料簡のなかで生きていて、しかし現実がそこにあればやっぱりそれだけで感動する」って台詞にやられる.

高架線

高架線

 

 

 

落合 (2017) 超AI時代の生存戦略

落合さんのような一流の研究者が、一般書のレベルでいろいろ思考を開陳してくれる状況は素直に楽しい。まれびとハウスに出入りしていただとか情報学環の先輩だとかで勝手に親近感をいだいているせいもある。

57ページに「ものごとには透明性と趣味性があって、人間だけが個人の色を付けていくことができる」とある。1970年代に「趣味はサシミのツマか」議論されていたとしたら、2020年代は本格的に「趣味はサシミである」と認識されるだろう。落合さんに限らず、人生100年時代や人工知能の発展を意識した論者はみな、「遊び」や「趣味」としてのライフの重要性を説いている。

 

超AI時代の生存戦略 ―― シンギュラリティ<2040年代>に備える34のリスト

超AI時代の生存戦略 ―― シンギュラリティ<2040年代>に備える34のリスト

 

 

【論文紹介】遠藤・友田 (2000) 社会教育に対する文化行政からの問題提起について

梅棹忠夫は1970年代に「教育はチャージ・文化はディスチャージ」論を展開することで,文部省―教育委員会ラインの社会教育行政ではない,首長部局による文化行政に勢いをつけた.「あそびの世界」を支えるには,学校教育が大きなウェイトを占める教育委員会のラインではなく,別の部局が必要だということだった.では,その一方で,社会教育側の論者たちは「趣味やおけいごと」をいかに位置づけていたのか?

1)『月刊社会教育』において趣味はいかに評価されていたのか?

社会教育分野の代表的な雑誌である『月刊社会教育』のうち,1973年から1997年に「文化」について言及した論文・記事は181本ある.それらの記事は,文化活動=趣味やおけいごとをいかに評価していたのか?

本稿の答えは「程度の差こそあれ,いずれも教育という視点から評価を下している」(p. 115)というもの.具体的には,

  • (a) 教育的な価値のみを重視するもの:17本
  • (b) 楽しみや生きがいも重要だが,それだけでなく教育的な価値が不可欠だとするもの:11本
  • (c) 楽しみ・生きがいなどの価値を前提として認めながら,それに付随して教育的な価値が伴えばなお一層好ましいと考える立場:42本

という内訳だ.このうち(c)の立場は「楽しさ」を重視し,一見教育の論理から距離をとっているように見えるが,それでも「自己形成」や「(市民参加)の先導的役割」に期待する側面がある.

2)芸術・文化活動はサシミのツマか?

こうした社会教育の論理を示す事例として,『月刊社会教育』1977年11月に掲載された「座談会 芸術・文化活動はサシミのツマか?」がある.この座談会では,趣味やおけいごとを「サシミのツマ」で終わらせてはならないという主張が展開されている.サシミのツマで終わらないとは「芸術文化活動が学習に結びつくこと」を意味し,具体的には「感性を身につけること」や「社会性が織り込まれること」などが挙げられている.本稿で象徴的に取り上げられているのが「十人来てるうち七人は落伍してもいいから」という発言であり,そこでは「教育」の観点から,適切な文化活動/不適切な文化活動の判断が行われている.

社会教育の論理を確認したうえで,著者は「個々の参加者が学習なり趣味・おけいこごとの活動を行う際に,何を志向するのか(例えば,楽しみのためなのか,主体形成のためなのか)は,個々の参加者が決めるべき事柄であり,教育する側が一つの価値観にのみ強制し,それに従わない人を排除することは許されないのではないだろうか」と述べる.

最終的に著者が表明する立場は,学習科学の学習者中心アプローチにとても近い.確かに,趣味への参加が「感性を身につけること」や「社会性が織り込まれること」に結果としてつながることはあるだろう(『趣味縁からはじまる社会参加』のような話だ).しかし,それはあくまで「結果として」であって,はじめから望ましい趣味とそうでない趣味を区別することは首肯しかねる.だからこそ,個人の「興味」や「楽しさ」を第一義にすえたうえで,趣味を支えていくべきなのではないか.行政だからこそ,そうした度量の大きさで活動を支えられる強みはあるはずだと思う.

 

それにしても,趣味を「サシミのツマ」とは,すごい表現をしたものだと思う.

 

遠藤和士, 友田恭正 (2000) 社会教育に対する文化行政からの問題提起について――梅棹忠夫氏の文化行政論と『月刊社会教育』との比較考察――. 大阪大学大学院人間科学研究科紀要, 26: 107-121 https://ir.library.osaka-u.ac.jp/repo/ouka/all/5761/

レッシグ (2004) Fee Culture

インターネット時代において,著作権という制度は制作物を保護する機能に偏重していて,過去の制作物を活用した創造を疎外してしまっていると論じた本.著者はサイバー法の研究者にして活動家のレッシグ.創造性というのは蓄積されてきた文化を素材にして発揮されるにもかかわらず,著作権が無制限に付与されることで,もう絶版になった本や,権利者が誰だか分からない倉庫に眠った映画が活用されなくなっている.著者は「フリー」を「無料」ではなく「自由」という意味で使っている.著作権はもちろん大事なのだけど,「一定のお金さえ払えば制作物を活用できる」自由すら,危うくなっている.著作権がいるかいらないかではなく,著作権は必要だけどバランスをとるべき,という話.

 本書をふまえると,ますます「アマチュアの活動は自由にやるのが楽しい.ゆえに,アマチュアの活動に介入すべきでない」という主張は間違いだという認識になる.確かに「アマチュアの活動は自由にやるのが楽しい」.しかし,問題は「いまアマチュアの活動は自由にできる状況にあるのか」ということだ.答えはおそらくノー.著作権以外に文化施設の不備や業界の慣習によって,アマチュアは自由に活動できているとは言えない.だったら,アマチュアが創造性を発揮するためにも,「アマチュアの活動が自由にできるようにする介入」は必要となる.

 このタイプの介入は,「ある行動をさせる」のではなく,「ある行動をする可能性を提供する」という介入である.このスタンスを維持するのは難しい.下手をするとすぐに「強制」になってしまう.それを回避するには,結果的に期待した行動が起きても起きなくても,期待した行動が起きる確率が上がっているならそれでいいという,ある意味で「余裕な」態度が求められる.成果主義エビデンスベーストな世の中ではなかなかやりにくいだろうけど,挑戦する価値があるはずだ.

 アメリカ憲法は議会に「著作者および発明者に対し、一定期間その著作および発明に関する独占的権利を保障すること により、学術および有益な技芸の進歩を促進する権限」を付与しているという

 

Free Culture

Free Culture

 

 

学習/芸術制作と政策担当部局の分離

1)学習と芸術制作はひとつの活動の両側面である

学習科学は,学習と制作活動は統合されたものと考える.「つくることでまなぶ」というやつだ.サイバー法の Lessig が,J. S. Brown に言及しながらこういう表現をしていた.とても良い表現だと思う.

文化をいじることが,それを作ると同時に学ぶことになるのだ(tinkering with culture teaches as well as creates) p. 64

Free Culture

Free Culture

 

わたしたちは「学んでから制作する」のではない.「制作しながら学ぶ」のであり,その結果として制作も洗練されていく.サークルや部活動でもそうではないか.初心者だろうといきなり吹奏楽に参加し,参加するなかで既存の吹奏楽という文化について学びながら,音楽づくりを洗練させていくのである.どこか別の場所で学ぶわけではない.学習と芸術制作はひとつの活動の両側面にすぎない.

2)日本において学習と芸術制作は政策の担当部局が違う

ところが,日本では不思議なことに,学習と芸術制作に関する政策を担当する部局が異なる.国レベルでは,学習は「文部科学省生涯学習政策局」が,芸術制作は「文化庁」が担当している.地方自治体レベルでは,学習は「教育委員会」が,芸術制作は「教育委員会あるいは首長部局」が担当している.これらの部局が「実質的に同じような活動を対象にしている」と多くの論者は言う.それにも関わらず,部局は分離しているのである.結構意味が分からない状況である.

僕がアマチュアの芸術活動を研究対象としようとするときも,それをどの領域に位置づけたらいいのか本当に謎だった.社会教育・生涯学習のような気もするけれど,でも公民館の活動を見ているわけではないし・・・文化政策のような気もするけれど,トップレベルの芸術活動を見ているわけでもないし・・・似たような領域はいろいろあっても,どこにも位置づけられないもどかしさを感じた.

3)なぜ担当部局は分離したのか?

12月16日に文化政策若手研究者交流セミナーで発表をさせていただき,そこでも文化政策/社会教育・生涯学習政策の分離が話題になった.先生方の認識として「分離している状況から新たな統合を目指したい」というのがある一方で,「そもそもなぜ分離したのか上手く説明できない」という.どうやら難問らしい.

この問題,博論を書くうえでも検討せざるをえない.11月15日の博士課程コロキウムでは,マクロな社会動向について考察したうえで「趣味の政治行政へのとりこみ」についても言及すべきではないか,と指摘いただいた.学部生の時から苦しめられている問題だが,やはり避けて通れない,と観念した次第.