レッシグ (2004) Fee Culture
インターネット時代において,著作権という制度は制作物を保護する機能に偏重していて,過去の制作物を活用した創造を疎外してしまっていると論じた本.著者はサイバー法の研究者にして活動家のレッシグ.創造性というのは蓄積されてきた文化を素材にして発揮されるにもかかわらず,著作権が無制限に付与されることで,もう絶版になった本や,権利者が誰だか分からない倉庫に眠った映画が活用されなくなっている.著者は「フリー」を「無料」ではなく「自由」という意味で使っている.著作権はもちろん大事なのだけど,「一定のお金さえ払えば制作物を活用できる」自由すら,危うくなっている.著作権がいるかいらないかではなく,著作権は必要だけどバランスをとるべき,という話.
本書をふまえると,ますます「アマチュアの活動は自由にやるのが楽しい.ゆえに,アマチュアの活動に介入すべきでない」という主張は間違いだという認識になる.確かに「アマチュアの活動は自由にやるのが楽しい」.しかし,問題は「いまアマチュアの活動は自由にできる状況にあるのか」ということだ.答えはおそらくノー.著作権以外にも文化施設の不備や業界の慣習によって,アマチュアは自由に活動できているとは言えない.だったら,アマチュアが創造性を発揮するためにも,「アマチュアの活動が自由にできるようにする介入」は必要となる.
このタイプの介入は,「ある行動をさせる」のではなく,「ある行動をする可能性を提供する」という介入である.このスタンスを維持するのは難しい.下手をするとすぐに「強制」になってしまう.それを回避するには,結果的に期待した行動が起きても起きなくても,期待した行動が起きる確率が上がっているならそれでいいという,ある意味で「余裕な」態度が求められる.成果主義、エビデンスベーストな世の中ではなかなかやりにくいだろうけど,挑戦する価値があるはずだ.
アメリカ憲法は議会に「著作者および発明者に対し、一定期間その著作および発明に関する独占的権利を保障すること により、学術および有益な技芸の進歩を促進する権限」を付与しているという
- 作者: ローレンス・レッシグ,山形浩生,守岡桜
- 出版社/メーカー: 翔泳社
- 発売日: 2004/07/23
- メディア: 単行本
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学習/芸術制作と政策担当部局の分離
1)学習と芸術制作はひとつの活動の両側面である
学習科学は,学習と制作活動は統合されたものと考える.「つくることでまなぶ」というやつだ.サイバー法の Lessig が,J. S. Brown に言及しながらこういう表現をしていた.とても良い表現だと思う.
文化をいじることが,それを作ると同時に学ぶことになるのだ(tinkering with culture teaches as well as creates) p. 64
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わたしたちは「学んでから制作する」のではない.「制作しながら学ぶ」のであり,その結果として制作も洗練されていく.サークルや部活動でもそうではないか.初心者だろうといきなり吹奏楽に参加し,参加するなかで既存の吹奏楽という文化について学びながら,音楽づくりを洗練させていくのである.どこか別の場所で学ぶわけではない.学習と芸術制作はひとつの活動の両側面にすぎない.
2)日本において学習と芸術制作は政策の担当部局が違う
ところが,日本では不思議なことに,学習と芸術制作に関する政策を担当する部局が異なる.国レベルでは,学習は「文部科学省生涯学習政策局」が,芸術制作は「文化庁」が担当している.地方自治体レベルでは,学習は「教育委員会」が,芸術制作は「教育委員会あるいは首長部局」が担当している.これらの部局が「実質的に同じような活動を対象にしている」と多くの論者は言う.それにも関わらず,部局は分離しているのである.結構意味が分からない状況である.
僕がアマチュアの芸術活動を研究対象としようとするときも,それをどの領域に位置づけたらいいのか本当に謎だった.社会教育・生涯学習のような気もするけれど,でも公民館の活動を見ているわけではないし・・・文化政策のような気もするけれど,トップレベルの芸術活動を見ているわけでもないし・・・似たような領域はいろいろあっても,どこにも位置づけられないもどかしさを感じた.
3)なぜ担当部局は分離したのか?
12月16日に文化政策若手研究者交流セミナーで発表をさせていただき,そこでも文化政策/社会教育・生涯学習政策の分離が話題になった.先生方の認識として「分離している状況から新たな統合を目指したい」というのがある一方で,「そもそもなぜ分離したのか上手く説明できない」という.どうやら難問らしい.
この問題,博論を書くうえでも検討せざるをえない.11月15日の博士課程コロキウムでは,マクロな社会動向について考察したうえで「趣味の政治行政へのとりこみ」についても言及すべきではないか,と指摘いただいた.学部生の時から苦しめられている問題だが,やはり避けて通れない,と観念した次第.
研究者もハッカーになろう
1)ハッカーの開発は互酬性で成り立つ
Eric Raymond は,なぜハッカーたちがオープンソース・ソフトウェアが開発できるのかを,人類学の互酬性の概念を使って説明したことで有名.開発者は金銭ではなく名誉で報酬を得ているという彼の議論は,アマチュアによる協調的な制作活動の動機づけに関するものとして読むことができる.
2)学術共同体も互酬性で成り立つ
さらに言えば,学術共同体における報酬の構造もオープンソース・コミュニティと同じだ.文化社会学者 Diana Crane の古典的な論文「芸術・科学・宗教における報酬システム」(Crane 1976)は,科学領域では「消費者」が存在せず「イノベーター」(=制作者)どうしが象徴的・物質的な報酬を与えるという.良い論文を書いても直接対価にはならないが,研究者どうしで尊敬しあう.
Crane, D. (1976) Reward Systems in Art, Science, and Religion. American Behavioral Scientist, 19(6): 719-734.
http://journals.sagepub.com/doi/abs/10.1177/000276427601900604
3)研究者もハッカーになろう
How To Become A Hacker: Japanese
ということは,良いオープンソース・ソフトウェアを生み出すハッカーの方法論は,良い論文を生み出すための方法論としても読めるだろう.Raymond は「ハッカーになろう」(How to Become a Hacker)という文章も書いている.そこで挙げられている「ハッカー的心構え」は,研究者がなぜ・どのように新規な問題に取り組むのかについて述べていると読めるし,「基本的なハッキング技術」は方法論の学び方と英語の重要性について述べている.そして,「ハッカー文化での地位」は,研究者がいかにしてコミュニティとして知識を共有していくべきなのかについて示唆に富んでいる.
オープンソース・ソフトウェアを書くことはをすなわち論文を書くことだし,それのテストやデバッグを手伝うことは,研究会やゼミ,データ・セッションでの議論の重要性を指している.有益な情報を公開することは,論文には載らない研究の知識をブログなどで公開することだし,研究会などを維持するためには陽の当たらない作業も必要.そうやって文化そのものを醸成することで,コミュニティから良い論文が生まれていくだろう.
ちょうど研究室運営について考えることがあったので,そのためにハッカー文化は良い指針になると思った.例えば,インフラを整備することの重要性は,もっと評価しなきゃいけない.ネットワーク環境をととのえたり,懇親会を企画したり,研究室のアーカイブを構築したり,ポートフォリオを可視化したりすること――インフラは劇的な効用は見えないけれども,それがないと文化は徐々にやせ細る.
ばるぼら, さやわか (2017) 僕たちのインターネット史
日本でインターネットがどのようなものとして語られてきたのかを、前史として80年代のパソコン通信から現在まで辿った本。90年代や00年代は、カリフォルニア・イデオロギー的なサイバースペース論や、レッシグのアーキテクチャ論みたいに「インターネットをどうするのか」という議論があったけど、今はそれがない。炎上やネトウヨの議論はあっても、インターネット・カルチャーに取り組む言説がなくなった、という認識が共有されている。コードも書けて、文化や倫理についても語れる山形浩生フォロワーみたいな人がいないと。
日本ではたしかにそんな感じがするけれど、海外のソフトウェア・スタディーズとかデジタル・ファンダムの研究は、まさにコードの観点をもちつつ現代のインターネット・カルチャーについて考察していると思う。情報学環が果たすべき役割はこういう議論を日本に根付かせることなんじゃないか。
「可能性の実現」の時代
20世紀は「実現可能性」の時代だったけど,21世紀は「可能性の実現」の時代になると思っている.結果が先にあってそれに至る過程の効率性で勝負するのではなくて,まだ明瞭に像を結んでいない結果を呼び込むことが求められる時代になるだろうと.
そのために,(1)「何か」が生まれそうな気配について記述するための言語を手に入れることとと,(2)「何か」が生まれそうな気配を醸成するための方法を手に入れることをしたい.どこに向かっているかは分からないけれど,ひたすら熱量だけはあった青春時代や,オルタナティブを模索し続けるアヴァンギャルド運動のような,そういう混沌さを直視するまなざしを手に入れたい.
どんな領域に依拠すると,こういうことができるだろう.課題解決型のイノベーションは半分くらい20世紀ぽさがあって,この文脈では違うかなと思っている.学習科学はそういう意味で共感するところは多い.
とはいえこういうことは「研究」としてやりたいというよりも,もっと実存的な問題なので,別に学問領域に依拠しなくても,文芸とかアートとかの言語でそれができればいいと思っている.
「1になりそうな0」の話も,要は同じこと.
挑戦してます感
10分で伝えます!やってみて,自分の研究の「挑戦してます感」もっと出していきたいなと思った
— ksugi (@vbear00) 2017年11月27日
アンケートで自分の話を面白いと書いてくださった人もいる一方で,もうちょっと元気がほしかったというコメントがあったり,ロボットづくりやインターネット社会の解明に身を乗り出している人への評価が高かったのをみたりすると,足りないのは「挑戦してます感」なのかなあ,と思った.
1になりそうな0
むかし,イノベーションとか起業とかに興味のある人たちから,「0から1を生み出す」ということをよく聞いたものだった.いまそれを振り返ったときに,自分がやりたいことは「1になりそうな0」と「0のままの0」の違いは何か知ることや,「1になりそうな0」を生み出すことになる,と思う.その0から実際に1を生み出すかどうかは,タイミングにもよると思うし,各人がめいめいやってくれ.でも,もし1を生み出したいと思った時に,「0のままの0」しか与えられていないのは不幸なことだから,どうにかしておきたい.せしもくんはこれを「種をまく」って表現してくれた.あるいは土をたがやす,みたいなことかもしれない.
「1になりそうな0」は可能性とか潜在性のことなので,なかなか「結果」「成果」として表現しにくい.例えばコモンズでの学生間コミュニケーションを考えた時には,コミュニケーションが起きていたら「1」,起きていなかったら「0」をつけることになる.成果としては,コミュニケーションが起きていないなら「1になりそうな0」と「0のままの0」には違いがない.でも,最近感じるのは,直接コミュニケーションを起こそうとする=1を生みだそうとする,よりも,コミュニケーションが起きそうな環境をつくる=1になりそうな0を生み出す,ことの方が,学生も求めているし,その方が持続可能なデザインだと思う.
いきなり1を生みだそうとすると,「いついつに集まりましょう」「こういうことをやりましょう」と,かなりの巻き込み・巻き込まれを要求する.これが多くの人にとっては面倒くさい.色々やることがあって予定も詰まっているんだから,同じタイミングで1に関与できる人はそうそういない.で,1が実現できないと結構悲しい気持ちになるし,やる気が削がれる.
でも,「1になりそうな0」をつくる場合は,そこまでの巻き込みは必要ない.「もしかしたら今後コミュニケーションとるかもしれないな」という人の存在や,個々人の活動を可視化するとかして,コミュニケーションの種をまいておくことは着手しやすい.Facebookに定期的に投稿する,みたいなのもそんなもんで,個々の投稿に逐一コメントはつかないけれど,たまに誰かが気が向いたら相手してくれる,そんな可能性をしつらえておくことは今からできる.1になるかもしれないし,ならないかもしれない,くらいなら気楽にできる.
「1になりそうな0」は見えにくくて地味なんだけど,それがあると1の持続性やレジリエンスも高まると思う.文化振興ってこういうことをやるもんじゃないかな.