日本語で読める芸術社会学ブックガイド
随時更新,日本語で読める芸術社会学ブックガイド.自分が見知っているもの中心.Routledge International Handbook of the Sociology of Art and Cultureの読書会を始めるのでその参考資料にもなれば.入ってない文献あればぜひ教えてください.「社会のブックガイド──ルーマンからはじめる書棚散策」の「社会の芸術」セクションも参照のこと(http://socio-logic.jp/events/201504_bookfair.php#sec13).
自律した領域としての芸術
- Becker (1984) Art Worlds
- 作者: ハワード・S・ベッカー,Howard S. Becker,後藤将之
- 出版社/メーカー: 慶應義塾大学出版会
- 発売日: 2016/04/23
- メディア: 単行本
- この商品を含むブログ (7件) を見る
- Luhmann (1995) Die Kunst der Gesellschaft
- Sapiro (2014) La sociologie de la littérature
天才としての近代芸術家の誕生
- Elias (1993) Mozart: Portrait of a Genius
モーツァルト 〈新装版〉: ある天才の社会学 (叢書・ウニベルシタス)
- 作者: ノルベルトエリアス,Norbert Elias,青木隆嘉
- 出版社/メーカー: 法政大学出版局
- 発売日: 2014/02/18
- メディア: 単行本
- この商品を含むブログを見る
- Heinich (1995) La Gloire de Van Gogh
文化階層
- Bourdieu (1984) Distinction
ディスタンクシオン <1 data-mce-fragment="1"> -社会的判断力批判 ブルデューライブラリー
- 作者: ピエール・ブルデュー,石井洋二郎
- 出版社/メーカー: 藤原書店
- 発売日: 1990/04/30
- メディア: 単行本
- 購入: 1人 クリック: 38回
- この商品を含むブログ (60件) を見る
- Levine (1988) Highbrow/Lowbrow: The Emergence of Culturar Hierarchy in America
ハイブラウ/ロウブラウ―アメリカにおける文化ヒエラルキーの出現
- 作者: ローレンス・W.レヴィーン,Lawrence W. Levine,常山菜穂子
- 出版社/メーカー: 慶應義塾大学出版会
- 発売日: 2005/04
- メディア: 単行本
- 購入: 1人 クリック: 4回
- この商品を含むブログ (5件) を見る
- Bennet et al. (2009) Culture, Class, Distinction
- 作者: トニー・ベネット,マイク・サヴィジ,エリザベス・シルヴァ,アラン・ワード,モデスト・ガジョ=カル,デイヴィッド・ライト,磯直樹,香川めい,森田次朗,知念渉,相澤真一
- 出版社/メーカー: 青弓社
- 発売日: 2017/10/10
- メディア: 単行本
- この商品を含むブログを見る
文化生産の組織とネットワーク
Richard PetersonやDiana Crane,Paul DiMaggioの著作は訳されないのだろうか.
- Girswold (1994) Cultures and Societies in a Chainging World
- 佐藤(2011)本を生み出す力
- 佐藤 (1999) 現代演劇のフィールドワーク
- 池上 (2005) 美と礼節の絆
- Finnegan (1989) The Hidden Musicians: Music-making in an English Town
- 作者: ルースフィネガン,Ruth Finnegan,湯川新
- 出版社/メーカー: 法政大学出版局
- 発売日: 2011/10/31
- メディア: 単行本
- 購入: 1人 クリック: 2回
- この商品を含むブログを見る
書評会 光岡寿郎『変貌するミュージアムコミュニケーション:来館者と展示空間をめぐるメディア論的想像力』を読む
8月5日(土)に東京大学本郷キャンパスにて,書評会:光岡寿郎『変貌するミュージアムコミュニケーション:来館者と展示空間をめぐるメディア論的想像力』を読む,を開催しました.20人ほどの参加者のみなさまにお越しいただきました.ありがとうございました.
評者として「社会・文化的状況に自覚的な「学習」の理解に向けて」というタイトルで,学習における社会・文化的アプローチとミュージアム研究の関係を光岡さんに尋ねさせてもらいました(レジュメは下記のポートフォリオサイトに公開してあります).社会・文化的アプローチはおそらくメディア論と関心を共有しているけれども,どこまで踏み込んでお互いを理解しあえるのか,そこまでの労力をかけられるのか,という点で学際研究の面白さと難しさがあることを再認識しました.学部で社会学をやり,今は学習科学をやっている人間としては両者にそこまで大きな違いを感じないのですが,実際の研究者コミュニティとしては距離があります.
書評会で印象的だったのは,内容の検討だけでなく「ミュージアムの実務家に本書をどう読んでもらうのか」「日本の学芸員とはいったいどのような人びとなのか」といった議論が多くなされたことです.ミュージアムエデュケーターやサイエンスコミュニケーターの方たちは本書をどう捉えるのか気になります.研究者コミュニティとアートワールドの関係はよく分からない不思議なものだな,というのは最近周囲を見ていて思うところです.
レジュメは下記サイトで公開しています
変貌するミュージアムコミュニケーション―来館者と展示空間をめぐるメディア論的想像力
- 作者: 光岡寿郎
- 出版社/メーカー: せりか書房
- 発売日: 2017/06/01
- メディア: 単行本
- この商品を含むブログ (1件) を見る
[学術英語]theoretical puzzle
さいきん2回ほど見かけた学術英語の表現で,theoretical puzzleというものがある.puzzleには「難問」という意味があるので,「理論的難問」を意味する.用例を見ている感じ,「ある現象に関して,理論的には相反する2つのメカニズムが働いていると考えられる.では,両メカニズムが働いた結果,現実はどのようになっているのか」ということを理論的難問と呼んでいる.
例えば,American Sociological Assosicationが2013年に博論賞を出したLarissa Buchholzの研究("The Global Rules of Art")の紹介では,こんなtheoretical puzzleが使われている.
本研究は,ひとつのtheoretical puzzleから始まっている:グローバリゼーションは,文化的生産物の国境を越えた流れと評価を不可避にともなう.このとき,このダイナミクスは,一部の西洋諸国からの文化的生産物が支配を拡大することを導いて文化的同質性に帰着するのだろうか.それとも,非西洋諸国の生産物がより流通し,認知を増すことを可能にして文化的多様性の増加をもたらすのだろうか?
The study begins with a theoretical puzzle: as globalization entails extraordinary cross-border flows and growing transnational valuation of cultural goods, will these dynamics lead to the extended dominance of cultural goods from a few Western countries, resulting in cultural homogeneity, or enable greater circulation and recognition of cultural creations from non-Western regions, and thereby produce increased cultural diversity?
あるいは,American Sociological Reviewに載ったMargaret Fryeの研究("Cultural Meanings and the Aggregation of Actions: The Case of Sex and Schooling in Malawi")のアブストラクトがある.
文化的意味は,どのようにして行為の集合的パターンから逸れると同時に原因になるのだろうか?一方では,共有された認知的連合は人びとの日常行為を導き,それらの行為が集まってふるまいの傾向――社会学者が測定し理解したいもの――を生み出す.他方で,共有された理解は,しばしばふるまいの傾向に矛盾する.このtheoretical puzzleに,マラウイにおける性関係と学校からのドロップアウトに関する経験的ケースを検討することで取り組む.
How can cultural understandings simultaneously diverge from and contribute to aggregate patterns of action? On one hand, shared cognitive associations guide people’s everyday actions, and these actions comprise the behavioral trends that sociologists seek to measure and understand. On the other hand, these shared understandings often contradict behavioral trends. I address this theoretical puzzle by considering the empirical case of sexual relationships and school dropout in Malawi.
相反する2つのメカニズムが働いていると理論的に考えられるとき,「では,経験的データを見ることで,結果として両者がどのように関係しあっているのかを見よう」というのがtheoretical puzzleを解くということだ.『社会を説明する――批判的実在論による社会科学論』における
あるいくつかのメカニズムはお互いを強化しあい,他のメカニズムはお互いの発現を妨害しあっている(p. 88)
どんなときも,相異なった様々なメカニズムの活動の現実の効果については,ある不確定さが存在してる(p. 89)
という考え方に通ずる.
『イシューからはじめよ』では,イシューの定義を
A)a matter that is in dispute between two or more parties
2つ以上の集団の間で決着のついていない問題
B)a vital or unsettled matter
根本に関わる,もしくは白黒がはっきりしていない問題
という両条件を満たす問題としている.theoretical puzzleは,イシューとしての条件をけっこう満たしているように思える.これが見つかると面白い研究になりそうである.
関連記事
小林 (2017) ライフスタイルの社会学
『ライフスタイルの社会学』読んでるけど「ライフスタイル格差は無くすべきだ」という規範的な主張はどうやったら正当化できるのか分からずもやる
— メキシコ人 (@vbear00) 2017年8月3日
1章と4章を.
教育,職業,収入における階層的地位グループによって,ライフスタイル領域ごとに階層格差はあるのか.その結果,階層的地位は,どのようにライフスタイルを規定するのか(p.10)
という問題の計量分析が行われている.例えば4章は「趣味」がテーマで,特に芸術文化消費におけるオムニボア(雑食)/ユニボア(偏食)の分析から,収入が高い人ほど様々な芸術文化を消費する(オムニボア)である,ゆえに「文化格差」があった,という回答がなされている.
こういう結果を「格差」として提示するとき,それは「解消されるべきもの」「是正されるべきもの」であるという規範的な主張も含まれているように思うのだけど,「ライフスタイル格差」の場合,なぜそれを解消すべきなのか,どう主張を正当化したら良いのか分からなかった. 4章の冒頭では,
この章では,階層グループによって,人びとの「趣味」のもち方に偏りがないのかを分析する.趣味をもって豊かな時間を過ごせれば,ライフスタイルがより豊かになるだろう (p. 69)
という風に書いてあるけれど,「趣味をもって豊かな時間を過ごすこと」は,オムニボアだろうとユニボアだろうと可能である.ユニボアだって「趣味」をもっていることに変わりはないのだから.それゆえ,ライフスタイル格差があろうとなかろうと,趣味をもって豊かな時間を過ごし,ライフスタイルを豊かにすることはできると思う.じゃあ,ライフスタイル格差は無くすべきなのか.無くすべきなら,なぜか.
マーケティング側の問題として,「ある社会階層の人たちがあまりコンサートに来てくれない」という結果があるから何らかの手段を講じるべき,ということなら分かりやすいのだが,ここでの問題はそれとは違う.個人的には「ライフスタイル格差を無くすべき」という主張を支える論理が見つけられたら面白いな,とは思っているけど,今すぐには思いつかない.
*分かりやすいのは,「ライフスタイル格差が存在することによって社会経済的な不平等が維持されてしまう」という文化資本―社会階層系の議論に乗っかることだけど,もうちょっとライフスタイルの領域の内部にとどめて議論する方向性はないのかしら,と思う.
ライフスタイルの社会学: データからみる日本社会の多様な格差
- 作者: 小林盾
- 出版社/メーカー: 東京大学出版会
- 発売日: 2017/03/30
- メディア: 単行本
- この商品を含むブログ (1件) を見る
池田 (2016) 空気のつくり方
友人が贈ってくれた3冊からの1冊目.TBSからの買収後,横浜DeNAベイスターズの初代球団社長を務めた著者が,いかにして球団経営を進めていったのかを書いた本.赤字だった経営を黒字にし,最下位でも横浜スタジアムが満員になり,チーム自身も今年は2位~3位を争っているのだから大転換を成し遂げたことになる.誘われてハマスタ観戦にも行ったら,球場内外で横浜と野球の魅力を伝える環境づくりがされていて,阪神ファンでも普通に楽しかった.
野球場でビールを飲むうまさとか,子どもたちの日常生活におけるベースボールキャップとか,文化としての野球がもつ楽しさに注目して,その魅力を形にしていくというやり方はとても好感をもった.アメフトやディズニーランドといった他業界の楽しませ方を参考にしつつも,「野球」という活動がもつ(潜在的な)楽しさを実現していくやり方は,ただ集客すればいいというものではなく,野球という楽しい文化自体を育てるのだろうなと思う.
この本を読んでいて,人に請われて合コンのセッティングをよくやっていた友人の言葉を思い出した.彼女が言うには,チャリティイベントみたいに大義名分があるものよりも,合コンみたいに「来てくれた人が純粋に楽しんでくれたかどうか」で成功/失敗が分かれるもののほうがよっぽど難しい.
楽しさという謎は、人類の叡智を結集させて挑む価値のある難題なのだろう.そこにビジネスとして挑むのも,研究として挑むのも両方面白い.
しゃべって文章を書く
以前,すべて音声入力で修論を書いている人がいるという話を先生から聞いて驚いたことがあるが,さすがにそこまではしなくても,自分も「しゃべって文章を書く」ことは結構やっていることに気づいた.ブログの記事にしようとか,論文や研究計画に書こうとか思った内容があると,だいたい頭のなかで語り口をつくってからキーボードを叩くことが多い.しゃべるというプロセスのなかで編集している感じ.
とにかく書きまくってから遂行しよう,という文章の書き方もあるけれど,あんまり自分には合わない.いきなりキーボードに向かって冗長で回りくどい文章を書くのは,けっこうしんどい.だいたい自分が読者として読むのに耐える文章を生産しないと気持ちが悪いので,書きなぐるスタイルは向いていないみたいだ.醜い文章を書きなぐるくらいなら,アウトラインやコンセプトマップみたいなものをノートに描くほうがいい.
研究のやり方とか文章の書き方とか,さまざまなハウツーが世の中にはあるけれども,どれが絶対的に良いとかはなくて,自分の肌に合うものを選択できればそれでいい.
文献レビューにおける個人的な関心の使い方
「個人的な思い入れや関心を文献レビューにどのように活かすか」というのは難しい問題だ.個人的に深い関心をもつ研究テーマを選ぶことは大事で,それがあるからこそ人は大学院に来るし,修士課程の2年間を過ごすだけの情熱を注ぐことができる.ただ一方で,文献レビューの対象を個人的関心によって特定しすぎると,些末であまり重要でない研究ばかりを読むことになったり,研究分野のなかに自分の研究を位置づけるのが難しくなったりする.なので,
自分の関心に遠からずも近すぎない領域をざっくり含んで文献レビューする
のが一番いい.問題は,どうやったらそのようなレビューを遂行できるのか,というhow-toの部分だ.
うちの研究室は〈学習〉を研究するという共通点のもとに人が集まってくるけれど,どのような〈学習〉を扱うのかはその人の関心に任されている.教科教育のようなフォーマル学習をやってもいいし,自分みたいに大人の趣味におけるインフォーマル学習を対象にしてもいい.そうすると必然的に,M1に対するゼミでの議論や研究相談の場では
「あなたはどんな〈学習〉を研究したいの?」
という質問が多くなる.この質問によって関心を明確にして,それに見合う領域をレビューしましょう,という流れになるわけだ.
しかし,ここで上で書いた話が問題になってくる.M1の早い段階で「どんな学習を扱うのか」を特定しすぎてしまうと,逆にレビューする分野が狭くなったり,うまく〈学習〉を特定できなかったために自分の関心とズレた方面でのレビューすることになったりしてしまう,ということが起きる.「自分の関心に遠からずも近すぎない領域をざっくり含んで文献レビューする」ということからは離れてしまうのだ.
それを回避するにはどうしたらいいのか.ぼくが見ている感じだと,
フィールドありきでレビューをして,その中から自分の扱いたい〈学習〉を選択する
という方略が,ひとつの解答としてある.「フィールド」というのは,〈学習〉ではなくて学習を取り囲んでいる〈環境〉を指している.「ミュージアム」みたいな場とか,「ファシリテーターの役割」みたいな他者の存在とか,そういうものをイメージしている.フィールドを入口にレビューをすることで,「どんな〈学習〉か」という部分はある程度宙づりにしたまま,自分の関心に近い(近そうな)領域を読んでいける.
ぼくは大人の趣味における〈興味の深まり〉を最終的に対象にしたけれども,M1の段階ではそもそも〈興味〉という研究トピックの存在を知らなかったし,漠然と自分が抱いていた「こういう学習を扱いたい」というイメージを表すのに〈興味〉が最適だとは思いもしなかった.けれども,アマチュア活動や趣味というフィールドに着目するという点は,はっきりしていた.なのでそういうフィールドを扱った文献をざっくりと拾い上げあれこれ読んだり人に相談したりしているうちに,〈興味〉に行き着くことになった.
ただその道のりは平板ではなくて,途中で「どんな〈学習〉か」を性急に言語化しようとしすぎてしまい,自分でもあまり面白いと感じない領域をレビューしている時期があった.なので,後輩たちにアドバイスする時も「あなたはどんな〈学習〉を研究したいの?」と言いがちになってしまうけれど,この質問は時期を見計らって使った方が良いなと感じる.レビューをはじめる段階よりも,レビューした結果どこに焦点を当てていくのかという時に――検索ではなく選択のときに――それぞれの関心を前面に出して判断するのが良さそうだと思う.こういうやり方をとると,
そのフィールドの特徴を最もよく捉える〈学習〉を選択する
こともできるようになる. そういう研究は必然的に面白くなると思う.
*もちろんこれは,「この能力を育成したい!」みたいな明確な関心がある人にとっては関係のない話.