How to Become an Amateur

大人の趣味とそれを支える環境について

文献レビューにおける個人的な関心の使い方

 「個人的な思い入れや関心を文献レビューにどのように活かすか」というのは難しい問題だ.個人的に深い関心をもつ研究テーマを選ぶことは大事で,それがあるからこそ人は大学院に来るし,修士課程の2年間を過ごすだけの情熱を注ぐことができる.ただ一方で,文献レビューの対象を個人的関心によって特定しすぎると,些末であまり重要でない研究ばかりを読むことになったり,研究分野のなかに自分の研究を位置づけるのが難しくなったりする.なので,

自分の関心に遠からずも近すぎない領域をざっくり含んで文献レビューする

のが一番いい.問題は,どうやったらそのようなレビューを遂行できるのか,というhow-toの部分だ.

 うちの研究室は〈学習〉を研究するという共通点のもとに人が集まってくるけれど,どのような〈学習〉を扱うのかはその人の関心に任されている.教科教育のようなフォーマル学習をやってもいいし,自分みたいに大人の趣味におけるインフォーマル学習を対象にしてもいい.そうすると必然的に,M1に対するゼミでの議論や研究相談の場では

「あなたはどんな〈学習〉を研究したいの?」

 という質問が多くなる.この質問によって関心を明確にして,それに見合う領域をレビューしましょう,という流れになるわけだ.

 しかし,ここで上で書いた話が問題になってくる.M1の早い段階で「どんな学習を扱うのか」を特定しすぎてしまうと,逆にレビューする分野が狭くなったり,うまく〈学習〉を特定できなかったために自分の関心とズレた方面でのレビューすることになったりしてしまう,ということが起きる.「自分の関心に遠からずも近すぎない領域をざっくり含んで文献レビューする」ということからは離れてしまうのだ.

 それを回避するにはどうしたらいいのか.ぼくが見ている感じだと,

フィールドありきでレビューをして,その中から自分の扱いたい〈学習〉を選択する

という方略が,ひとつの解答としてある.「フィールド」というのは,〈学習〉ではなくて学習を取り囲んでいる〈環境〉を指している.「ミュージアム」みたいな場とか,「ファシリテーターの役割」みたいな他者の存在とか,そういうものをイメージしている.フィールドを入口にレビューをすることで,「どんな〈学習〉か」という部分はある程度宙づりにしたまま,自分の関心に近い(近そうな)領域を読んでいける.

 ぼくは大人の趣味における〈興味の深まり〉を最終的に対象にしたけれども,M1の段階ではそもそも〈興味〉という研究トピックの存在を知らなかったし,漠然と自分が抱いていた「こういう学習を扱いたい」というイメージを表すのに〈興味〉が最適だとは思いもしなかった.けれども,アマチュア活動や趣味というフィールドに着目するという点は,はっきりしていた.なのでそういうフィールドを扱った文献をざっくりと拾い上げあれこれ読んだり人に相談したりしているうちに,〈興味〉に行き着くことになった.

 ただその道のりは平板ではなくて,途中で「どんな〈学習〉か」を性急に言語化しようとしすぎてしまい,自分でもあまり面白いと感じない領域をレビューしている時期があった.なので,後輩たちにアドバイスする時も「あなたはどんな〈学習〉を研究したいの?」と言いがちになってしまうけれど,この質問は時期を見計らって使った方が良いなと感じる.レビューをはじめる段階よりも,レビューした結果どこに焦点を当てていくのかという時に――検索ではなく選択のときに――それぞれの関心を前面に出して判断するのが良さそうだと思う.こういうやり方をとると,

そのフィールドの特徴を最もよく捉える〈学習〉を選択する

こともできるようになる. そういう研究は必然的に面白くなると思う.

*もちろんこれは,「この能力を育成したい!」みたいな明確な関心がある人にとっては関係のない話.

面接という一流の先生とのおしゃべり

 大学院では入試や中間発表など,自分の研究計画について先生に面接される機会が何回かある.緊張や不安を覚えることもあるけれど,基本的にこういう面接は楽しい場だと思っている.なにせ,自分が一番面白いと思っていること=研究テーマについて,一流の先生たちと会話できるのだから.そこでの話題は単なる研究の技術的問題にとどまらない.研究テーマの今日的な重要性や面白さについて,ぼくたちと先生方が「いち個人」としてパーソナルな意見を交わすことができる.そして,研究をよりよくするためのアドバイスがもらえる.なんていい研究相談,なんて密度の濃いおしゃべりの場なんだろう,面接ってすごい,と思っている.

 論文の審査や諮問でも事情は変わらない.いちおう「完成した研究」について話しているものの,もっとこんな研究ができるよね,という「これから」の話も出てくる.わざわざ大学院という世界にやってきたぼくたちは,生きている限り――たとえ研究機関に所属しなくとも――そのテーマについて「研究」を続けていくだろう.だからそれって要は人生相談なんだよな,と自分の過去の面接を振り返って思う.

 学際情報学府はこの時期に中間発表があるし,来月には院試が行われる.準備にストレスを感じることがあるかもしれないけれど,楽しいおしゃべりの下ごしらえだと思って過ごしてもらえたらなと思う.

研究対象の選び方

 研究対象の選択について「表向きは研究上もっともな理由づけしているけれど本当は個人的な思い入れがあるんでしょ」と聞かれることがあるけれど,特に思い入れはない.基本的に自分が愛着をもつのは「対象」ではなく「ものの見方」なので,ある概念や問題を検討するうえで最も実りがありそうな対象を選びたい.修論でアマチュア・オーケストラを対象にしたけれど,自分はアマオケ経験者ではないし,クラシック音楽をよく聞くわけでもない.でも,大人の趣味における興味の深まりと環境による支えを考えるうえで,アマオケはとても魅力的な対象だと思った.それならば,アマオケを研究する良さを引き出すためにも,オーケストラやクラシックの予備的な勉強をすることは当然のことだ.クラシック音楽になじみがなくたって勉強すればある程度はなじむようになるものだし,全くもって勉強不可能なものだったらそもそも趣味として普及していないだろう.対象に個人的な思い入れがないことと,対象の魅力を感じないことは別問題である.

 だから,逆に「なんでフラメンコの研究をしないの」と聞かれても,理由を答えようがない.たしかに,自分がサークルでフラメンコを踊っている経験があったからこそ,大人の趣味を研究しようと思ったのは間違いない.だけれど,それは「フラメンコを通して,趣味や趣味を支える環境(というものの見方)に対して興味を抱いた」のであって,フラメンコを研究したいわけではない.

 こういう志向があるので,自分が何者であるのかカテゴライズするのには若干苦労する.「アートの人です」とか「スポーツの人です」みたいに具体的なジャンルでカテゴライズできないので,いかんせん「趣味」とか「インフォーマル学習」という抽象的な言葉になりがちになる.そういうカテゴライズでやっていくにためにも,「対象」ありきではない「ものの見方」の面白さを伝える,ということのレッスンを意識的にやっていきたい.

プラウト (2005) これからの子ども社会学

 読書会があると聞いて読んだ本。私たちは「子どもは〜〜というものである」(例えば、「子どもは学校で教育されるべきである」)という信念を、本当はそれは1つの考え方に過ぎないのに、さも自明であるかのように抱いてしまう。子ども/大人という区別を当然視してしまう。しかし、現代ではそういう二項対立や「子どもとは何か」を自明視、当然視するのではなく、問うていかねばならないと本書は主張する。
 社会学構築主義を学んだ人なら「何を今さら」というような話なのだが、日本で「教育」や「子ども」に関わる業界の人々は、「20年前にこうした議論は出尽くしたのに誰も勉強してない」のだという。相変わらず「自分が考える教育」「自分が考える子ども像」を固持し、(苫野一徳さんの言葉を借りれば)信念対立を繰り返している。耳の痛い話であるが、教育という業界がそこから抜け出しうるだろうか。

これからの子ども社会学 生物・技術・社会のネットワークとしての「子ども」

これからの子ども社会学 生物・技術・社会のネットワークとしての「子ども」

 

 

ポルテッリ (1991) オーラルヒストリーとは何か

 最近、自分がグッとくるのは「全く新しいことを知ること」ではなく、「すでに知っていることを新しく見るための視点を得ること」だと思う。社会科学に惹かれ、オーラルヒストリーやライフヒストリーに魅力を覚える理由もここにある。
 歴史学では伝統的に文書資料が用いられてきたが、本書は口述資料の価値を述べる。そうした資料が私たちに教えてくれるのは、「どんな出来事が起きたのか」に加えて「その出来事は人々にとってどんな意味をもっていたか」ということだ。例えば、1930年代にアメリカ・ケンタッキー州で起きた炭鉱労働者のストライキは、労働者側も資本家側もともに星条旗🇺🇸というシンボルを掲げていた。しかし、オーラルヒストリーの聞き取りが明らかにするのは、両者にとってアメリカの象徴たる星条旗が意味するところは異なっていたということだ。ここには、同じ対象を別々に意味づける——労働者と資本家という——2つの視点がある。
 人々の語りを聞くということは、その人たちがどのように世界を経験しているのか、その見方に触れることだ。それがとても面白い。

オーラルヒストリーとは何か

オーラルヒストリーとは何か

 

 

週刊東洋経済 2017年7月22日号

 リンダ・グラットンの『LIFE SHIT』は、長寿命化が進み人生100年になる21世紀の社会では、教育→仕事→引退という従来の生き方モデルからの転換が必要ですよと説いた本。この東洋経済の特集は、『LIFE SHIT』的な生き方を現代日本でするにはどうしたら良いかということが、転職や副業の経験談などと一緒に紹介してある。

 その中で印象に残ったのは、退職して家族で世界旅行をしている人が「デンマーク福祉国家で手厚い保護があるからこそ、生きる目的に悩む人が多い」と語っていたこと(特集の本筋とは関係ないけど)。自分が生きる意味や人生を貫く価値観を人はどうやって見いだすのだろう。『LIFE SHIT』ではエクスプローラー(探検者)として旅とかをしながら探そうと書いてあるけれど、そう上手くいくものなのかな。

LIFE SHIFT(ライフ・シフト)

LIFE SHIFT(ライフ・シフト)

 

 

ダナーマークほか (2002) 社会を説明する――批判的実在論による社会科学入門

 社会科学の研究とは何をすることなのかを哲学的・方法論的に書いた本。社会科学の特徴は自然科学と違って、みんながすでに知っていたり経験したりすることがらを扱う点にある。宇宙を見たことのない人は多くても、教育を受けたことのない人や労働をしたことのない人は少ない。だが、そういうすでにみんなに馴染みのある対象を学術的な「概念」というレンズを通してみると、新たな理解の仕方を得たりやそれを支えるメカニズムを発見できたりする。それが社会科学の仕事なので、だから概念や理論が決定的に重要になる。

社会的世界における生成的な力とメカニズムについての知識を得ようと願ったとき、私たちが扱いうる最もすばらしい道具のひとつは、出来語の操作による特定の側面の隔離ではなく、むしろ思考における特定側面の隔離、すなわち抽象化なのである。69

 研究をやらない人は別に本書を読まなくてもいい。でも研究をやる人は研究をやらない人にこの内容を伝えられるべきなんだろうなと思う。「研究って何やってんの?」という素朴な問いに答えることになるから。そして、自分のやっていることを人に話せたほうがたぶん楽しいので。

社会を説明する―批判的実在論による社会科学論

社会を説明する―批判的実在論による社会科学論

  • 作者: バースダナーマーク,リセロッテセコブセン,ジャン・Ch.カールソン,マッツエクストローム,Berth Danermark,Jan Ch. Karlsson,Liselotte Jakobsen,Mats Ekstr¨om,佐藤春吉
  • 出版社/メーカー: ナカニシヤ出版
  • 発売日: 2015/03/31
  • メディア: 単行本
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